昭和46年04月06日 朝の御理解



 御神誡 一、「信心する人の真の信心なきこと。」

 御神誡の一番最後の所、昔はお月次祭をお参りしますと、必ず最後にこの御神誡奉読がなされました。今は立教神伝が奉読されますですね。昔は皆この御神誡でした。子供心に、御神誡だけを暗誦しておりました。大体ですがしかも短いですね。ここでは奉読致しませんけれども、それを先生が読まれておると、一つ一つ成程成程と感じる。意味は深い意味は分からんけれども、分からせて頂くような気がして、こう言う所を守って行きゃ、信心が出来るんだなと言った様な事を、子供心にも思うたものですね。
 特にその今一番最後の所を声を大きくしてから、「信心する人の真の信心なきこと」と言うて、お読みになると何かどしっとこう、心の底に響いてくるようなものを感じましたですね。訳は分からない訳は分からないけれども、そんな風に感じましたんですが、まあ長ずるにしたがって段々信心を分からせて頂き、分からせて頂くというより信心させて頂くようになって、果たしてその、真の信心を本気で分からせて貰おう。
 本気で体得しようという風に、お互いが本気で感じることがあるだろうか、感じた人が幾人あるだろうかという風に思うですね。信心と言や成程人間の知恵力で出来ない、不思議な御利益を頂くと言う事、まあ信心とはそんな風にばっかり私どもは思うて来た。御教えを頂いて成程心にずしっと来る程しのものを感じながらも、真の信心というものをお互いに本気で分からせて頂こうという人が、沢山の信者の中にどれだけあるだろうか。という程しにです、真の信心を本気で目指すという人が少ないのです。
 おかげを頂かんならんから一生懸命修行をする。おかげを頂かんならんから、毎日お参りをすると。そう言う事に終始致します。これはまあ誰彼のことではありません。まあほとんどがそういう感じが致します。昨日壮年部会で皆さんいろいろ、本当に何やかや発表なさいました。なかに善導寺の原さんがこんなことを発表しておられます。実は先生今日は頭が痛うして、今日の壮年部会は御無礼しようと思いました。
 所が息子が帰って参りましてから、ちょっとした難儀な問題を聞かせて頂きましたら、こりゃ寝ちゃおられん、是はお参りせにゃと思うて参りました。してみると難儀ちゃ有難い事だな。信心をかり立てる信心の心をこう掻き立てる様なものがある。ローソクの火が小さくなりよると、ちょっとこう掻き立てますとパーッとこう燃える様にですね。ですから私が思うのに皆がそうなんですもんね、原さんと言うて話した事でした。
 本当に難儀を感ずるから、やはりお参りするのである。もう今日は大変頭も痛いし、御無礼しようかと思いよったけれども、ちょっと難儀なことを聞いたら、こりゃじっとしちゃおられん、参らにゃというて信心の心を掻き立てられる。是は原さん一人だけの事じゃない、皆もそうだとこう思うんです。だから本当にそういう私は、間はですねお互い難儀は尽きないと思うですね。難儀を感じませんと信心せんもん。そうでしょうが。おかげを受けて有難い、本当に勿体ない。信心が分かれば分かる程有難い。
 昨日佐田さんでしたかね佐田さんの奥さんが、もう先生昨日は何を見ましても、何を聞きましてももう有難うして有難うしてと、言うてお届けがあった私は昨夜御祈念中にそれをふっと思うてから、昨日はお湿りがあっておりましたから。お湿りの音を聞かせて頂きよったら、もう限りない有難いものが、昨日一日もう非常に疲れておりました。ちょっと御用で外に出まして、大分歩いたり登ったり致しましたもんですから。
 それだけでなしに、昨日一日そんな訳で疲れておりましたですから、夜の御祈念なんか、いわば、やっとというごときつかった。このくらいで糖尿病という病気を持っておるから、ここん所が違うんだなと。まだ六十になるかならないくらいの、私達年配でこげんきつかってはならん。やっぱ糖尿病のせいじゃろうかと、思わにゃならん程にきつかった。ところが、御祈念させて頂いて、お湿りの音を聞かせて頂きよったらね。
 おかげで何かしらこう新しい、疲れた血というかね、濁った血というかそれがこう新しい、綺麗な血に変えられて行く様な思いがした。佐田さんが今朝からお届けしよんなさったのは、こういう事だとこう思うた。何を見ても何を聞いても有難うして有難うしてという、その有難うして有難うしてという、その心が今日もお礼参拝させて貰わなければおられないという事であり、私はそういう信心をね頂きたいとこう思う。
 原さんの信心がいけないというのではないけれども、信心するほとんどのが人です、やはり、油断は出来ん。是はもう油断したらすぐまた、おかげの方が後に戻る。それで信心が掻き立てられるようにお参りをしてくる。原さんの事じゃないけれども、今日は頭が痛うて休もうかと思ったけれど、子供の話を聞かせて頂きよったら、はあこの位の事で御無礼しちゃならんと思うて参ってきたという。それはいけないのじゃない。
 けれどもそういう信心からです、いわゆる有り難うして有り難うしてという、一日の喜びを、そこに参拝する形に現さしてもらわなければおられない程しの信心に育って行かなければいけない。でなかったらですねいつまでも、難儀が続く事になりましてね、神様が信心しておかげ下さる。だからこら楽にすりゃすぐ、お日参りでんなんて止めてしまうけんで、と言うて、いつも難儀を感じさせなさる様な事が起きて来るといった様な風にも頂けるわけです。
 だからどうでも一つ、ここに真の信心と仰るが、真の信心を分からせて貰わなければいけないことになるのです。「信心する人の真の信心なき事」と、例えば御神誡を聞かせて頂いておりますとです、訳の分からない子供心にも、何か本当にびしっと神様のお言葉のように聞かせて頂いておったが果たして、ほんなら真の信心とは、どういう信心かというて、思うてきた事は一つもなかった。私の信心自体がそうであった。
 何十年間信心させて頂いて、やはり困った時の神頼み的な信心であり、また願えば御取次頂けばおかげが頂かれるという、まあ自信のようなものは出来てきた。だから私はどうでも信心しなければ、私は大体が商売人ですから、良か商売人にはなれんなあといったものを段々強く感じるようになってきた。言わば信心なしには出来ない、信心なしには自分は立ち行かんなあ、いわゆる段々信心が自分の命になりかけてきておったという事ですね。だから過程ですからね、それは皆それでも良いのです。
 難儀を感ずるからお願いをしておる。難儀を感ずるから修行をしておる。けれどもそれだけではいけんのです。真の信心とはという、私は願いというものがね、かけられなければ。ところがほんなら、これ程しの沢山の信心をしとる人がありますけれども、真の信心とか真の信者というのは、ごく少ないということ。これは私が子供の時に感じたことですけどね。それから何十年間、それを思うたことはなかった。
 それがふっと何十年振りかに、自分の難儀に直面して、その真の信心と思うようになった。私が十一、二の時じゃかなったかと。これははっきり覚えませんけども、善導寺の、今の親先生が学院から帰られた。まだ青年教師として、バリバリ元気な信心をなさっておられる頃、今の善導寺の総代しとられます岸先生が、私よりも七つ多いですから、親先生と四つ五つ違う訳ですね。
 その四つ五つ違う親先生と岸先生が、丁度昔は今の少年少女会が子供会と言うておった、その子供会に出らせて頂いとります時にその合間に、今表のお玄関のところに、二人ながら腰掛けて、信心話をなさっておられたようでした。丁度ご承知の方は善導寺の方達は、ご承知でしょうけれども、ほん入り口のところに、御手洗鉢がありましたが、私は御手洗鉢のところに立っておった。
 そこに先生方二人が座って、信心の話をしとられるのに、岸先生が善導寺の親先生に言うておられるんですよ。「もう先生、何人ち言うことはいりませんよ」と。「本当な信者を一人作って下さい」。もうこれが私の心を捉えたんですね。まぁいうならば、それがね、何とも言えん風に響いてきたんじゃないでしょうか。そん時に私がですね、ほうあんなこと言いよんなさると思うたんでしょうね。
 その「一人でん良かけんで本当の信者を作って下さい」と、まだ二十前くらいの岸先生が、もう二十四、五位になっておられましたでしょうか、親先生に向って言うておられる。それを聞いた時にですね、その本当の信者ちと言うとに一つ、私がなろうと思うたです。思うたらね、どうもこうもされんごたる感動が湧いてきて、あのすぐ横が、昔は蜜柑畑がありました。すぐほん横にありましたがね。
 私は、感動が湧いて涙がこぼれますから、可笑しいですから、すぐその蜜柑畑の中に入って涙を拭いたことを覚えております。まぁ私が十一の時にその本当の信者、一人でも良いと言われるほどしの、本当の信者になろうと私は思うた。その思うたことをです天地は聞いておられた。神様は聞いておられた。そして神様が感動なさった。その感動が私の心に響いてきたのであろうと思う。さあそれから何十年間、その時は思うたけれども、それを思い出そうともしなかった。
 だからですね皆さん本当に真の信心を、一つ分からせて貰おうさせて貰おうと。本当に思うて、出来なくともです。やっぱ本気で思わせて頂くお繰り合わせを頂かにゃいかんですね。そして何十年間いわば、我情我欲の信心ばっかり、商売すりゃ繁盛することばっかり。十銭儲かるよか十二銭儲かる方が、おかげのように思うておったり、そして何十年間過ごしてきた私の信心ですから、そう偉そうな事は言えません。
 けれどもねほんなら終戦そして引き揚げと言う所からです、今までの信心ではいけなかったと気付かせて貰って、私が十歳十何歳の時に思う多様な事が、本当に思われ本当にその時の信心に取り組ませて頂いたと言う事になるのです。同時に今日私が皆さんに聞いて頂きたいと言うのはです、難儀を感ずるから、是は参らにゃ出来んと、おられんという信心が続いておったんでは、その難儀はいつまでも切れませんと言う事です。
 信心の道が分かり信心の道を行じ、そこから生まれて来る、お湿りの音を聞き、何を見ても聞いても有難い有難いと。まあ佐田さんが、真の信心とは思われませんけれども、たまにははぁこれが真の信心と言うのであろうかと思われるくらいにです、何を見ても聞いても有難いと言った様なものが感じられるとするとです、そういう信心を目指そうということにもなってくるとこう思うのです。
 四神金光様がある御大祭の時に、ある先生がそれこそ、あの境内を埋め尽くした信者を見て、「四神様、大変なご比礼でございますな」と。「金光の町をお道の信者、信奉者が埋め尽くしております」と言うて、ご挨拶に申し上げた時に、四神様がね、「さあな、これだけの信者が居るけれども、この中に、真の信者が何人おろうか」と仰った、という程しに、真の信心を目指しておるという者は少ないと言う事。
 昨日、どなただっただったでしょうかね、御神願を頂いたと言うて、久富先生だったろうか、仰ったが麦畑の中にある事をお願いしよったら、麦畑の中に黒んぼが何本か点々と見えるところを頂かれた。私共はその黒んぼにならして頂かにゃいかんのですよ。沢山な、例えば麦畑の中に所々今でもあると思う、私共の子供の時分には、何とか病ち言うですね、あの黒ん病だから病気になるちいうのじゃなくて黒んぼと言う事。黒んぼと言う事は、本当の修行という意味じゃないかと思うですね。
 これだけの沢山の人間がおるけれども、この中で真の信心をしておる者は、その沢山の麦の中にある、黒んぼくらいしかないと言う事。本当の信心修行の出来れる、真の信心修行の出来れる、私どもにお取り立てを頂かなければならないと言う事。そうなあ是だけの人間がおるけれども、真の信心をするものは少ないし。まあこの中に何人おるだろうかと言われる程しであった。
 そういう意味で、昨日久留米の初代なんかは、久留米の石橋さんこそ真の人でしょうなと、三代金光様をして、そう言わしめさせられる程しの御人格であったと言う事ですね。真の人、真の人が真の信心をする。ですから結局私共が真の人を目指さなければいけない、真の百姓にならにゃいけん。真の商売人にならにゃいけんと言う事になる訳ですよね、信心させて頂く者は、まず、そこんところを頂かせて頂かねばならん。成程久留米の石橋先生はもう大変に御用が出来られたお方ですね。
 それこそ御用の時に、ない袖は振られんと言うけれども、ない袖の下を振れという風に仰っておられます。これはね最近言われる「御用すれば助かる。御用すれば徳が受けられる」そういうケチな考えから、石橋先生は徳を受けようと思うて御用なさった訳ではなかった。人が助かること、神様が喜んで下さることならばです、それこそ借金負うてでも御用さしてもらおうとされたのであって、御用すりゃお徳が受けられるから、御用なさったのじゃない。また、御用したから徳を受けるんじゃないと私は思う。
 その御用をなさる石橋先生の、その心自体が真であったからなんです。先生自身が真の人でおありになったからなんです。その真の心、真の人がです、天地のご信用を受けられる事になって、ああいう大徳を受けられたのであって、御用をしたからではない。これは私の持論なんですけれどもね。私どもも御用させて頂きたいと思う。出来れば何でも御用させて頂きたいと思いますけれどもです。
 御用して徳を受けようなどとは一つも思いません。それはまあ当たり前のこととしてです、さして頂かして貰うおかげを頂きたいと念願しとります。ですからそこら辺を間違えず、本気で、真の人に真の信心があれば、本当に御用もさせて貰わなきゃおられない心が生れて来るでしょう。そういう御用の出来れる私達にならして頂きたいと願います。そこで私は、御神徳を受けると言う事は、やはり神様の機感に適う信心にと。
 言わば神様の機感と言えば、神様の御心に適う信心、その御心を分からしてもろうてです、御心を行じて行くこと。しかもそれを実意丁寧にです、神様の心を心としての信心をさせて頂くということが先ず大事。そこで先ず改まらなけりゃならん。先ず研かなければならない。そこから真の人の誕生がある。その真の人がです、実意丁寧に神様の心を奉じて生活をしている。信心修行に打ち込んでいる。
 そこから真の徳が現われてくる。どういう風に現われてくるかというと、第一心配がなくなる。無邪気になる。そういうおかげ。徳のない間は心配をすると仰る。段々人間に徳が付いてくるにしたがって、心配がなくなってくる。しかも邪気がなくなってくる。無邪気になってくる。ですから、金光様の御信心を頂いておるから、真の信心をしておるということじゃありません。
 ですから金光様の御信心の中にでも、さあ真の信心しておるものが、この沢山の中に何人おろうかと言われる程しなのですから。私どもが先ず願わにゃいけません。私が子供の時に思うたように、本当に真の信心真の信者にならせてもらおう、真の人にならせてもらおうという願いを立てなければならん。そこからです有難うして有難うしてという、神恩報謝の心が湧いて来、神恩報謝の生活が実意丁寧に、いわゆる「天地日月の心になる事肝要なり」と仰せられる程しの信心が生活の中に頂けて行く様になる。
 そこから言わば真の道が拓けてくる。その真の道の拓けてくる。真の道を行ずるところから真のおかげ、いわゆる信のおかげ、本当のおかげ人間を本当の幸福に、幸せにせにゃおかんという働き、そこには難儀が解消されたり、難儀がなくなってくる。物に金に全てのことに、不自由することのないおかげこそです、私は真のおかげであると思います。それを頂かして頂くのもです、心の中の喜びが、有難いから、勿体ないからお参りさせて貰うという様なことに段々なってくる。
 家にはじっとしておられんというのが、私は信心を言わば教会参拝になってくる信心、そういうおかげを頂きたいと思う。原さんの事を例にとりましたが本当にそこに難儀を感ずるからやはり頑張って参って来る。それがまあ十人が十人そうなのですけども。いわば、百人が百人そうなのですけども。けども千人万人の中の一人にお取り立てを頂きたいと思うなら、その千人万人の中の一人に、ならせて頂くと言う事はです、本気で真の信心とは、真の信心を分からせて貰いたい、真の信者にならして貰いたい。
 まず真の人を目指さして頂こうという、私は心掛けからですね、真の信心真のおかげ、真のおかげが拓けてくることになると思うのです。だからもう本当に十人が十人、百人が百人、言わば、皆そうなのです。けれどもね千人万人の中の一人にお取り立て頂きたい。まあ合楽の信奉者の皆さんが、皆そういう心掛けになって下さればです、沢山の麦畑の中に点々としてある、その黒んぼの様な信心をね、本当の金光大神の信心を頂く行者としての信心がですね、身に付いてくる。
 そこから有難い勿体ないという日々、そういう生活が約束されるのですから。でないと、いつまで経っても難儀が切れません。難儀が続かなければ信心せんと言う事になるわけです。だからこの氏子になら、いくらおかげをやっても、愈々有難うなって行く信者であると、矢張り神様見極めなさるところからです、本当の人間の幸せを思わせて頂けれる信心が出来るとこう思うのです。
 真の信心。「信心する人の真の信心なきこと」これは金光様の御信心だけに当てはまるものではありません。金光様の信心を頂いとるから、真の信心をしとるとも言えません。その中にあって、真の信心を目指さしてもらう訳であります。だから先ず思わなならん、先ず願わなければならない。そこから真の信心の入り口が開けてくると思うですね。
   どうぞ。